塾超のインド発見記
2013年11月22日金曜日
2013年11月18日月曜日
2013年11月16日土曜日
幸せの質量
僕たちには「幸せ」という言葉がある。
あなたの”幸せ”ってなんでしょうか?
インドの学校では、子供たちを見るとひとりひとりに、とてもパワーがあり元気でアクティブに見える。
彼らには、日本の子供たちのように、物は何もない。
「物」だけではなく、いわゆる「情報」も無いと言っていい。
毎日を生きていく、ストレートなパワーのみが存在するのである。
日本の子どもたちの周りには、ほぼ何でもある。
TV、ゲーム、スマホ携帯など、遊び物や、情報ツールで、擬似的な楽しみを
居ながらにして可能にする「道具」が多く存在する。
「物」や「情報」が、少ないと幸せで、多いと不幸せになっていく・・・・
どうしてでしょうか?
多ければいいと思うのが普通なのですが、人には、それが当てはまらない。
どうして、多ければ多いほど不幸せになっていくのか・・・
例えば、小さいコップと大きなバケツがあったとして、バケツには、半分の水が入っていて、コップには、水がいっぱいに満たされている。バケツ半分は、コップ10杯以上の量がある。
インドの子供たちは小さいコップ、そして、日本の子供たちはバケツだ。
もう、お分かりだと思うが、幸せ度、満足度、それは、
「満たされているかどうか?」
に、かかっているのだと思う。
そして、不思議なことに、満たされている容器の「大きさ」には関係ない。
日本人の子どもには、物や情報が多すぎて、その容器が大きく膨らみ過ぎてしまったのだ。
インド人の子どもは、物や情報など皆無で、その容器は膨らまない。
大きな容器をいっぱいに満たすには、それなりの量の水が必要なのは言うまでもない、しかも、どんどん容器が膨らみ続けていたら、いつまでたってもそれは、いっぱいにはならない。要するに、幸せは感じられない。
インド人が、みんな幸せを感じ、パワーがあるのは、小さい容器がいつも満たされているからに他ならない。
そして、僕達、日本人が、本当に幸せを掴みたかったら、その方法はひとつ!
”容器を小さくする”ことだけである。
2600年前に、この国に生まれた釈迦は、言ったのだ。
「容器を無くしてしまおう。」と・・
具体的には、試しにやってみるといい。
まずは、子どもから、TVと携帯を排除してみればわかる。
確かに、それだけで、世界が変わり、幸せなことが、徐々に起こるのである。
あなたの”幸せ”ってなんでしょうか?
インドの学校では、子供たちを見るとひとりひとりに、とてもパワーがあり元気でアクティブに見える。
彼らには、日本の子供たちのように、物は何もない。
「物」だけではなく、いわゆる「情報」も無いと言っていい。
毎日を生きていく、ストレートなパワーのみが存在するのである。
日本の子どもたちの周りには、ほぼ何でもある。
TV、ゲーム、スマホ携帯など、遊び物や、情報ツールで、擬似的な楽しみを
居ながらにして可能にする「道具」が多く存在する。
「物」や「情報」が、少ないと幸せで、多いと不幸せになっていく・・・・
どうしてでしょうか?
多ければいいと思うのが普通なのですが、人には、それが当てはまらない。
どうして、多ければ多いほど不幸せになっていくのか・・・
例えば、小さいコップと大きなバケツがあったとして、バケツには、半分の水が入っていて、コップには、水がいっぱいに満たされている。バケツ半分は、コップ10杯以上の量がある。
インドの子供たちは小さいコップ、そして、日本の子供たちはバケツだ。
もう、お分かりだと思うが、幸せ度、満足度、それは、
「満たされているかどうか?」
に、かかっているのだと思う。
そして、不思議なことに、満たされている容器の「大きさ」には関係ない。
日本人の子どもには、物や情報が多すぎて、その容器が大きく膨らみ過ぎてしまったのだ。
インド人の子どもは、物や情報など皆無で、その容器は膨らまない。
大きな容器をいっぱいに満たすには、それなりの量の水が必要なのは言うまでもない、しかも、どんどん容器が膨らみ続けていたら、いつまでたってもそれは、いっぱいにはならない。要するに、幸せは感じられない。
インド人が、みんな幸せを感じ、パワーがあるのは、小さい容器がいつも満たされているからに他ならない。
”容器を小さくする”ことだけである。
2600年前に、この国に生まれた釈迦は、言ったのだ。
「容器を無くしてしまおう。」と・・
具体的には、試しにやってみるといい。
まずは、子どもから、TVと携帯を排除してみればわかる。
確かに、それだけで、世界が変わり、幸せなことが、徐々に起こるのである。
2013年11月15日金曜日
インドの子供たち
塾超が、今回の旅で会った、インドの子供たちで、写真があるものを紹介します。
ポイントは、それぞれが、それぞれの世界で必死で、みんな真剣。
適当で、いい加減に気が抜けているような子はいない。
ガンジス川の沐浴場にいた、花売り2名の少女。ちなみにこの二人は知り合いじゃない。
私から買ってと言い争っている。
公園にいた子供と親。何をしてるかは、不明。
クシナガラの学校で塾超が子供達に囲まれ記念写真、
しっかり整列してしまい行儀がいい。
物乞いの子供達と。子供に赤ちゃんをわざと抱かせて、ナマステと、変な歌を歌いながら近づいてくる。親が影で指示して物乞いする。
この時、10ルピー(17円)を恵んだ。これで大喜びだ。でも、すぐにもっとくれとせがむ。
学校帰りに店で遊ぶ子供たち。
突然立ち寄った名も知らぬ街の学校で。とにかく明るい。
通りがかりの高校2年生にいろいろインタビュー。
この子達は次はコーチングの時間だそうです。
通りがかりの学校の子供達。
登校するこども、かなり遠くてもほとんどがビーサンで歩く。
塾超のiPadに群がってしまう子供達。
汚いけど明るい。
こいつら、今は野良坊主だが、近く学校に通うのだそうだ。
笑顔が素晴らしい。おばあちゃんまで手を
ネパール国境の物乞いする子供たち。
中学人の観光バスのおばちゃんたちに、お金チョーダイと必死になって離れない。
失敗すると親に怒られるのだ。
道を歩く子供達
通りの人に、物乞いする女の子。
インドの楽器屋に行ったらヤバイ
インド音楽をやってみようかと思い、オールドデリーにある、知る人ぞ知るの楽器屋に
いってみました。
入り口付近は、普通の楽器が飾ってありました。でも、変なまがい物?楽器のようです。
なんか、こう凄く珍しかったり、ビンテージものないかと聴くと、地下に招待されました。わくわくです。
いってみました。
入り口付近は、普通の楽器が飾ってありました。でも、変なまがい物?楽器のようです。
なんか、こう凄く珍しかったり、ビンテージものないかと聴くと、地下に招待されました。わくわくです。
出たあー!
20年、30年、50年ものシタールや、その他の楽器がところ狭しとならんでいます。
おうっと!
ヤマハのギターに何やらシタールの共鳴弦みないな変なものが・・
(楽器に詳しい人はわかりますね。)
シタールを初めて弾きましたが、かなり難しい楽器です。
手ほどきを受けて何とか「かたち」になってきました。
楽器の説明など、ほとんど聞いていないです。:)
ストリートで興味を持った、ハーモニウムにも興味があったのですが、
あの音には程遠い。
右側・楽器屋の店主、左側・専属エスコートのサンジーブさん、
いろいろとありがとうございました。
いろいろとありがとうございました。
2013年11月14日木曜日
信号の無い世界観3
インド人の思考は非常にダイレクトでわかりやすい。
前回に書いたように、起こっている事そのものを見ている。
クラクションも、冷静に考えてみると、危ない時の注意、
または、こちらから何かを伝えたい場合の合図でしかない。
これはまさしく前回の書き込みでか
書いたように、単にインド人のやってることではないか。。
それを、鳴らされるとうるせー、抜かされると悔しい。などと意味のない感情を
入れてしまう方が、よほどズレている。
僕たち、人間の進化が付いていけないほどの、進んだ情報社会に暮らしている。
そんな中で、自己存在の証明のために、自分という殻をどうしても強く作り出すことになる。
その殻は存在証明には都合がいいのだが、同時に、内側からみると、
その殻自体が、生きる上での障害となっていくのだ。
よって、殻というフィルターを通して世界を見るので、物事の本質をとらえることはどんどん難しくなり、殻もどんどん厚くなる。
いずれは、自分という殻内での判断しか出来なくなるのだ。
クラクションを鳴らされて、うるさい、何の用があるんだ?
と、短絡的に反応してしまうのは、鳴らされた事という本質を見る前に、
自分にとってうるさい、自分にとっていらない、放っておいてくれ、という、
ものの本質を見ない、自分側の世界観を表したに過ぎない。
その殻を、僕たちは一般的にエゴ、自我という。
僕たちは、この「信号の無い世界」に生きるインド人が、全てが介在する道路でも、
ほとんど事故することも無く、全てと調和しているように、生きる上で最も大切な事を学ぶ事ができると確信する。
追記
デリーなど大都市には信号機はあります。
今回の記事は、僕が今回、訪ねた、主にインドの普通の町を題材に書いています。
信号の無い世界観2
まず、この映像を見て欲しい。
http://youtu.be/1WMguK1kiv8
これは、我が専属ドライバー、アランパティーさんの素晴らしいスーパードライビングの映像です。
彼らの運転の仕方は凄い、何せクラクション鳴らしまくり!
そう聞くと、日本人の僕たちからすると、あまりいい感じはしない。
クラクション=文句、苦情、喧嘩
のイメージがあるからです。
昔、香港に行った時もそうでした。
先日も、中国では、対向車からの2人の女性ドライバーが、互いに道を譲らず、
その道をなんと1日封鎖してしまったニュースにも驚いたばかりだ。
日本でも、危ないので、つい鳴らしたら、人によっては睨み返してきたり、
感情をあらわにする人もいるでしょう。
そして、このインドも、そんなクラクションの嵐で、
気性の荒い運転を覚悟していたのです。
しかし。。。。
ふと気づくと、こういうメッセージが、車の後ろについているのがかなり目立ちます。
blow horn
sound horn
何と、「クラクション鳴らして下さい!」 という意味です。
どういうことか初め分かりませんでした。
そして、運転の様子をよく見ると、決して、"譲り合い"何てことは考えてないのです。
むしろ、突っ込むくらいです、バンバン抜かします。
そういうわりには、クラクション鳴らして下さいと言うのです?..
インド人のエスコートに「クラクション鳴らしてケンカにならない?」と、聞いてみると、
「ならない、逆に鳴らしてもらった方がいい。文句や、イチャモンつける人はいない。
だいたい、そんなことしても誰も聞いていない。」だそうだ。
なるほど、そういうことか!
クラクションを鳴らされて、イラつく我々とは思考がまったく違うのだ。
彼らは、クラクション鳴らされると
「お、クラクション鳴ってるね、邪魔なんだな、ちょーっと待ってろよー。今どくよ。」
抜かされると、
「おっと、先急ぐのね。どうぞどうぞ。」
抜かす時は
「ちょっとどいてくれえ、先行かせろよー」
クラクションを鳴らされている方は、まるで、ありがとうって感じにも見えるのです。
クラクション一つとってもインド人の感覚が、我々日本人や他の国の人間とは
まったく違うことがよくわかるのだ。
このニュアンス伝わるでしょうか?
次回はさらに深く入ります。
つづく
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