2013年11月14日木曜日

信号の無い世界観3

インド人の思考は非常にダイレクトでわかりやすい。
前回に書いたように、起こっている事そのものを見ている。

クラクションも、冷静に考えてみると、危ない時の注意、
または、こちらから何かを伝えたい場合の合図でしかない。

これはまさしく前回の書き込みでか
書いたように、単にインド人のやってることではないか。。

それを、鳴らされるとうるせー、抜かされると悔しい。などと意味のない感情を
入れてしまう方が、よほどズレている。

僕たち、人間の進化が付いていけないほどの、進んだ情報社会に暮らしている。
そんな中で、自己存在の証明のために、自分という殻をどうしても強く作り出すことになる。

その殻は存在証明には都合がいいのだが、同時に、内側からみると、
その殻自体が、生きる上での障害となっていくのだ。

よって、殻というフィルターを通して世界を見るので、物事の本質をとらえることはどんどん難しくなり、殻もどんどん厚くなる。

いずれは、自分という殻内での判断しか出来なくなるのだ。

クラクションを鳴らされて、うるさい、何の用があるんだ?
と、短絡的に反応してしまうのは、鳴らされた事という本質を見る前に、
自分にとってうるさい、自分にとっていらない、放っておいてくれ、という、
ものの本質を見ない、自分側の世界観を表したに過ぎない。

その殻を、僕たちは一般的にエゴ、自我という。



僕たちは、この「信号の無い世界」に生きるインド人が、全てが介在する道路でも、
ほとんど事故することも無く、全てと調和しているように、生きる上で最も大切な事を学ぶ事ができると確信する。



追記

デリーなど大都市には信号機はあります。
今回の記事は、僕が今回、訪ねた、主にインドの普通の町を題材に書いています。

3 件のコメント:

  1. 釈迦の生まれた国の人間は1000年経っても2000年経っても、根底にその悟りが知ってか知らずか身についているのかもしれない、と思ってしまった。

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  2. そうか、クラクションを鳴らされて「うわ~、うるさいな~」と思う感情は、エゴから生じるのか・・
    たしかに、危ないからクラクションを鳴らすとういう動作は、当然といえば当然。
    単なる合図であるクラクションに別に怒る必要はないのだが、日本では、ちょっと腹が立つ行為になる。
    全ては感情から来るのか・・。エゴがあるからなのか・・。
    インド人のように、エゴにとらわれない生き方をすれば、すべての物が調和して生きていくことができる。まさに、今の日本人には欠けている考え方を、インドの人々は古い歴史の中から受け継がれてきたのだろう。リアルインドに行きたいと思った。

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  3. ちょっとネットで調べてみたが、インド人には元来、「いろいろなアイデアをベースに最短で解決策にたどりつこうとする思考や行動、手法、方法」=「ジュガール」という哲学があって、それが彼らの生活の知恵として根付いているというのだ。
    この一見、邪魔者だらけのような道路でも、問題なくすり抜けている彼らの様子を見て、なるほどと思った。
    物質的には豊かでも、自分のエゴに苦しむことが多い私たちにとって、これは生きていく上で大切なヒントになるかもしれない。

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